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以常見我故 而生恣心 放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身          南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。


by eco_eco69

【御書の要】立正安国論を学ぶ【日蓮仏法】(11)        せいきょう夕刊編

― 立正安国論(5) (回答)

主人咲み止めて曰く

 辛きを蓼葉に習ひ、臭きを溷厠に忘る。
 善言を聞きて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ
 正師を疑ふて悪侶に擬す。

 其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。

 事の起りを聞け。
 委しく其の趣を談ぜん。

 釈尊説法之内、一代五時之間、先後を立てて権実を弁へず。
 而るに曇鸞・道綽・善導 既に権に就いて実を忘れ
 先に依て後を捨つ。

 未だ仏教の淵底を探らざる者なり。
 就中、法然其の流れを酌むと雖も、其の源を知らず。

 所以は何ん。
 大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻
 竝びに 一切の諸仏菩薩
 及び諸の世天等を以て捨閉閣抛之字を置いて
 一切衆生之心を蕩す。 
 是れ偏に私曲之詞を展べて、全く仏経之説を見ず。

 妄語之至り、悪口之科、言ひても比い無く責めても余り有り。

 人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。
 故に浄土之三経を崇めて衆経を抛ち
 極楽之一仏を仰ぎて諸仏を忘る。
 誠に是れ諸仏諸経之怨敵、聖僧衆人之讎敵也。

 此の邪教広く八荒に弘まり周く十方に偏す。

 抑そも近年之災を以て往代を難する之由、強ちに之を恐る。
 聊か先例を引いて汝の迷ひを悟すべし。


 止観の第二に史記を引いて云く

  周の末に被髪袒身にして礼度に依らざる者有り。

 弘決の第二に此の文を釈するに左伝を引いて云く

  初め平王之東遷するや
  伊川に髪を被る者野に於て祭るを見る。
  識者の曰く 百年に及ばずして、其の礼先づ亡びぬと。

 爰に知んぬ。徴前に顕れ災後に致ることを。
 又

  阮籍逸才にして蓬頭散帯す。
  後に公卿の子孫皆之に教い、
  奴苟相辱しむる者を方に自然に達すといい
  ソン節兢持する者を呼んで、田舎と為す。

  司馬氏の滅ぶる相と為す。

 巳上。


 又、慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く

  唐の武宗皇帝會昌元年
  敕して章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺に於て
  弥陀念仏の教を伝えしむ。

  寺毎に三日巡輪すること絶えず。
  同二年、回鶻国之軍兵等唐の堺を侵す。
  同三年、河北之節度使忽ち乱を起こす。
  其の後、大蕃国更命を拒み回鶻国重ねて地を奪う。
  凡そ兵乱秦項之代に同じく、災火邑里之際に起る。

  何に況んや武宗大に仏法を破し、多く寺塔を滅す
  乱を撥ること能わずして遂に以て事有り。

 巳上 取意。


 此れを以て之を惟ふに
 法然は、後鳥羽院の御宇、建仁年中之者也。
 彼の院の御事既に眼前に在り。

 然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す。
 汝疑ふこと莫れ、汝怪しむこと莫れ。
 唯須らく凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を截るべし矣。



― 解説 ―

【司馬氏】
中国の司馬一族。280年、江南の呉を滅ぼして天下を統一したが
諸侯の内乱と、外からは五胡の侵入をうけて、三一六年、四代で滅亡した。

【入唐巡礼記】
慈覚大師が承和五年六月十三日、太宰府を出帆して入唐してから
同十四年七月、筑前に入港するまでの十年間の日記であり巡礼紀行文。



― 現代語訳 ―

主人はにっこりと笑って客を止めていう。

 俗に蓼食う虫も好きずきといい、臭いもの身知らずともいうように、
 その事に染まってしまうと事の是非善悪がわからなくなって
 善い言葉を聞いても悪と思い
 正法を謗る人を見ても聖人といい
 正しい師を見ても悪僧と疑ったりするものです。


 その迷いはまことに深く
 その罪はきわめて重いものです。

 まず事の起こりをよくお聞きなさい。
 くわしく法然の謗法のありさまをお話ししましょう。

 釈尊一代五十年の説法には、前後の順序があり
 方便の教えと真実の教えとの区別があります。
 釈尊は人びとの機根に合わせて
 やさしい教えから深い教えへと説き進み
 最後に本意を述べられたのが法華経であります。


 しかし、曇鸞・道綽・善導らは、
 先に説いた方便権教を取って 後に本意を述べられた
 法華実教を忘れて捨ててしまったのです。

 彼らは、まだ

 仏教の根底を究めていない
 未熟な者といわざるをえません。


 ことに法然は浄土三師の流れをくむ者ですが
 彼らと同じく仏教の根源が
 法華実教にあることを知らないのです。


 なぜならば

  すべての大乗経典と仏・菩薩・神々を

  捨てよ
  閉じよ
  閣けよ
  抛てよ


  ・・・の、四字を説いて
 多くの人びとの心を迷わせているからです。

 しかし、これは
 法然一人が 自分勝手に曲げて解釈した言葉であり
 まったく 仏説にもとづいていません。


 その妄語・悪口の罪は他に比べるものもなく
 責めても責めつくせません。

 人びとは みな 法然の間違った説を信じ
 選択集を尊んで、浄土三部経だけを崇めて
 他の諸経を捨て
 極楽世界の阿弥陀仏だけを拝んで
 他の諸仏を忘れてしまいました。

 法然こそが 諸仏諸経の怨敵であり
 聖僧や大衆の敵であります。


 ところが今やこの邪教が広く天下に弘まってしまったのです。

 貴殿は私が

 近年の災いを昔の罪だ
 法然の謗法が原因だ


 ・・・と非難したことをひどく恐れているようですが
 それは間違いです。

 少しばかり先例を引いてその根拠があることを証明して
 貴殿の迷いを晴らしてあげましょう。


 天台大師の
 摩訶止観第二に史記を引用して 次のように記しています。

  周の代の末に、髪を乱し、衣を着ないで
  礼儀をかまわない者たちがいた。


 この文を妙楽大師は
 摩訶止観弘決に春秋左氏伝を引用して
 次のように解釈しています。

  周の平王が外敵に侵略されて都を東へ遷すとき
  伊川のほとりで髪を乱した者が野に立って
  祭をしているのを見る。

  太夫の辛有が言うには
  百年の後にはこの地も周の領土ではなくなるかもしれない。
  それは礼儀がすでにすたれてしまっているからだと。


 これらの文からわかるように
 災いの前には必ずその前兆が現われるものです。
 また摩訶止観には
 前の文に続いてこのように記しています。

  阮籍はすぐれた才能のある人であったが
  つねに髪をのばし、帯も締めずに生活していた。
  そこで公卿の子弟たちもこれにならって
  下品な言葉でののしりあったり
  礼を無視することが自然であるといい
  かえって礼儀を守り慎み深い者を田舎者と軽蔑した。

  これが司馬氏の滅びる前兆である ・・・と。



 また慈覚大師の入唐求法巡礼行記には
 次のようなことが記されています。

  唐の武宗皇帝の会昌元年(841)
  章敬寺の鏡霜法師に勅命を下して、念仏の教えを広めさせた。

  三日ずつ各等々で弥陀念仏の浄業を巡回し行なわせたところ、
  同二年にはウイグル国の兵が唐の国境を侵略し
  同三年には河北の節度使が反乱を起こした。
  その後、大蕃国(チベット)も
  唐の命令を拒否し、ウイグルが重ねて唐の領地を侵略した。

  このような戦乱の続いたことは
  秦から漢へと移る時代と同じで
  兵火によって多くの村や里が災難にあった。

  それだけでなく
  武宗は仏教を迫害し、多くの寺塔を破却したので
  反乱を収めることができず
  ついに自分の命にも及んだのである ・・・と。
  (以上、文意をとったもの)



 このように中国の歴史を見て
 日本の現実に照らし合わせて考えてみますと
 法然は後鳥羽上皇の建仁年間(1201~1204)の人であり
 後 鳥羽上皇が 隠岐の島に配流されたこと
 眼前たる事実であります。

 念仏が災難の原因をなすということは
 唐にその実例があり
 日本にもその証拠が顕われています。

 疑ってはいけません。怪しんではいけません。
 近年のうち続く災難を除くためには、何よりもまず
 念仏の凶を捨てて 法華経の善に帰依し、
 災難の原因である謗法の根源を断ち切らなければなりません。


(参考資料と現代語訳)
http://park5.wakwak.com/~soka/risshou.htm
http://www.sattva.jp/data/g-list2.html
http://www4.ocn.ne.jp/~sen0001/gosyo02b.html
(関連スレ)
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1131439444/


読んでいて
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by eco_eco69 | 2007-04-15 08:34 | 立正安国論