2007年 06月 12日
「三妙合論について」 (戸田城聖氏の指導)より
寿量品に 三妙合論 の説があります。
三妙とは、本因の妙 本果の妙 本国土の妙で、あります。
文上において (この場合は法華経を鵜呑みにする読み方)
寿量品の上から見ますと 「我実成仏已来」 が 本果の妙であります。
(我実成仏已来:我、実に成仏してより已来=つまり 私は遥か昔に成仏している )
しかも 「仏は浄土のみいらして 娑婆世界には おられない」
・・・と 言うのが 法華経以前の学説であります。
しかし寿量品には、「娑婆世界」と言う
本国土妙 が 説かれております。
それは仏が 娑婆世界に 凡夫と共に、菩薩と共に
また声聞縁覚と共に 或いは 畜生、餓鬼などと共に
みな一緒に 十界 おのおの 同居しております。
この不思議さを 本国土の妙 と、言います。
「仏の本国 と言うものは、娑婆世界である。」と言うのであります。
しかも、その仏の境涯を得るのは 本因 があり
それが 「我本行菩薩道」 ・・・と言うところであります。
(我本行菩薩道:我れ本、菩薩の道を行じて…
所謂、私は菩薩の修行をして感じ、それを導く事)
「我実成仏已来」 これは、仏の本体 で あります。
即ち、文低 (この場合は 「御儀口伝」による法華経に対する日連大聖人の解釈) より
これを論じますと 御本尊に当たります。
これを 文上においては
「“五百千万億 那由陀阿僧祇の三千大千世界” が あって
コレを磨り潰して粉として… 」
(大雑把に言えば 「遥か昔から」 と言う意味 個人的には「時間」と解釈した)
・・・という処が、御本尊の境智を仰っているのであります。
即ち 文低からコレを論じて参りますと
大宇宙、即、御本尊であり
南無妙法蓮華経の生命 と言うものは、「我実成仏已来」
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
我れ 仏を得て この方
仏になって より この方、「大宇宙と共にある」
・・・・と、読むのが 文低 で あります。
しかも
「娑婆国土以外には、本当の仏は いらっしゃらない」のであります。
娑婆に仏がおられなかったならば、そんな仏は
「迹仏」 (譬えると「腐っても鯛」) で あり
「権仏」(この場合は「武器」と言う見方もある)で あります。
娑婆世界 に おられる 仏 こそ、真実の仏 で あります。
その 仏 に なるには、みな 菩薩の道を行じたのであります。
「我本行菩薩道」であります。
しかし、これを文低より論じて行くところに
「本果妙の“釈尊の仏法”」と「本因妙の“教主釈尊”」 との 相違 が
はっきりしてくるのであります。
・・・と言うのは
文上から このまま眺めても、「我実成仏已来」と言う事は、即ち
御本尊本体 で あります。
ですから
この「御本尊本体」 を 「本体」として 釈尊が姿を現じております。
ですから、「本果の世界」 を 現しているのであります。
ところが 日連大聖人になりますと
仏自体の立派な姿 を 現じられない のです。
即ち 仏になる本因 を 論じ 仏になる本因 を 行ずる ので あります。
ですから 「本因妙の仏」 と 言う以外に ないのであります。
大聖人が 生まれながらにして「御本尊の体」 を 現し
「御本尊の行」 を 行じられたならば
それは“菩薩道では なくなる”ので あります。
菩薩道と言うのは、菩提薩捶【ぼだいさった】と申しまして
「仏になる道を行ずる」のを言うのであります。
御書の何処を拝読いたしましても
「我れ仏になって、霊山で お前等を救ってやる」とか
「私はこれだけの難を忍んだので、私は、そのうち 仏になるだろう」
・・・と 書いては いないのであります。
日連大聖人の御行動は、本地内証の位においては 仏でいらせても
行ずるところは、菩薩であります。
その菩薩を一括して 即ち、文上でいえば
五十二段の本因初住の文低にあたる処の「南無妙法蓮華経」という
仏、本体 を 信じて 我々は 仏になる ので ありますから
大聖人の仏法は 本因の妙 なのであります。
故に 大聖人を「本因の仏」と称し
寿量文上の仏を持って「本果の仏」と称し
ここに「本因妙」と「本果妙」の区別があるのであります。
「三妙合論について」
―和光社刊 戸田城聖講述:日連正宗 方便品、寿量品講義
P.177~179
(1958年1月1日:創価学会本部にて)
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三妙とは、本因の妙 本果の妙 本国土の妙で、あります。
文上において (この場合は法華経を鵜呑みにする読み方)
寿量品の上から見ますと 「我実成仏已来」 が 本果の妙であります。
(我実成仏已来:我、実に成仏してより已来=つまり 私は遥か昔に成仏している )
しかも 「仏は浄土のみいらして 娑婆世界には おられない」
・・・と 言うのが 法華経以前の学説であります。
しかし寿量品には、「娑婆世界」と言う
本国土妙 が 説かれております。
それは仏が 娑婆世界に 凡夫と共に、菩薩と共に
また声聞縁覚と共に 或いは 畜生、餓鬼などと共に
みな一緒に 十界 おのおの 同居しております。
この不思議さを 本国土の妙 と、言います。
「仏の本国 と言うものは、娑婆世界である。」と言うのであります。
しかも、その仏の境涯を得るのは 本因 があり
それが 「我本行菩薩道」 ・・・と言うところであります。
(我本行菩薩道:我れ本、菩薩の道を行じて…
所謂、私は菩薩の修行をして感じ、それを導く事)
「我実成仏已来」 これは、仏の本体 で あります。
即ち、文低 (この場合は 「御儀口伝」による法華経に対する日連大聖人の解釈) より
これを論じますと 御本尊に当たります。
これを 文上においては
「“五百千万億 那由陀阿僧祇の三千大千世界” が あって
コレを磨り潰して粉として… 」
(大雑把に言えば 「遥か昔から」 と言う意味 個人的には「時間」と解釈した)
・・・という処が、御本尊の境智を仰っているのであります。
即ち 文低からコレを論じて参りますと
大宇宙、即、御本尊であり
南無妙法蓮華経の生命 と言うものは、「我実成仏已来」
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
我れ 仏を得て この方
仏になって より この方、「大宇宙と共にある」
・・・・と、読むのが 文低 で あります。
しかも
「娑婆国土以外には、本当の仏は いらっしゃらない」のであります。
娑婆に仏がおられなかったならば、そんな仏は
「迹仏」 (譬えると「腐っても鯛」) で あり
「権仏」(この場合は「武器」と言う見方もある)で あります。
娑婆世界 に おられる 仏 こそ、真実の仏 で あります。
その 仏 に なるには、みな 菩薩の道を行じたのであります。
「我本行菩薩道」であります。
しかし、これを文低より論じて行くところに
「本果妙の“釈尊の仏法”」と「本因妙の“教主釈尊”」 との 相違 が
はっきりしてくるのであります。
・・・と言うのは
文上から このまま眺めても、「我実成仏已来」と言う事は、即ち
御本尊本体 で あります。
ですから
この「御本尊本体」 を 「本体」として 釈尊が姿を現じております。
ですから、「本果の世界」 を 現しているのであります。
ところが 日連大聖人になりますと
仏自体の立派な姿 を 現じられない のです。
即ち 仏になる本因 を 論じ 仏になる本因 を 行ずる ので あります。
ですから 「本因妙の仏」 と 言う以外に ないのであります。
大聖人が 生まれながらにして「御本尊の体」 を 現し
「御本尊の行」 を 行じられたならば
それは“菩薩道では なくなる”ので あります。
菩薩道と言うのは、菩提薩捶【ぼだいさった】と申しまして
「仏になる道を行ずる」のを言うのであります。
御書の何処を拝読いたしましても
「我れ仏になって、霊山で お前等を救ってやる」とか
「私はこれだけの難を忍んだので、私は、そのうち 仏になるだろう」
・・・と 書いては いないのであります。
日連大聖人の御行動は、本地内証の位においては 仏でいらせても
行ずるところは、菩薩であります。
その菩薩を一括して 即ち、文上でいえば
五十二段の本因初住の文低にあたる処の「南無妙法蓮華経」という
仏、本体 を 信じて 我々は 仏になる ので ありますから
大聖人の仏法は 本因の妙 なのであります。
故に 大聖人を「本因の仏」と称し
寿量文上の仏を持って「本果の仏」と称し
ここに「本因妙」と「本果妙」の区別があるのであります。
「三妙合論について」
―和光社刊 戸田城聖講述:日連正宗 方便品、寿量品講義
P.177~179
(1958年1月1日:創価学会本部にて)
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by eco_eco69
| 2007-06-12 18:06
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