2007年 11月 18日
池田大作氏見解による本尊の具体的な内容(1)
立宗の日(4月28日)に因みまして考えますことは
“日蓮大聖人は、いったい
何をこの世にお弘めようとなされたのか?”
・・・と言う一点であります。
それは端的に申し上げれば「本尊」であります。
根本として尊敬すべきものとしての「本尊」であります。
人は
“根元に迷えば、枝葉にも迷い
根元に迷いが無ければ 枝葉末節の迷いも
おのずから消えていくものである。”
故に
“一番 大事な 根元の処のもの”
・・・を一切衆生に与え 弘められたのであります。
では、その“本尊の内容”とは何か?
それに関しては御書の中において
「自分は幼少の頃、清澄寺で虚空蔵菩薩に対して
日本一の智者になしたまえ
・・・・・・・と祈って、大智慧を給わった。」
・・・と言う意味の事を述べられておりますが
晩年において、その具体的な内容を
第二祖日興上人に示しております。
即ち「御本尊七箇の相承」の中に
明星直見の本尊の事 如何【いかん】。
師の日はく末代の凡夫、幼稚の為めに
何物を以って【もって】本尊とす可きと虚空蔵に御祈請ありし時
古僧示して言はく・・・・・
“汝等が身を以って本尊と為す可し”
明星の池を見給えばとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり。
“日蓮が影、今の大曼荼羅なり”
(堀日亨編纂 「富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部」 P.32~33)
・・・と言うのがソレであります。
これにつきまして、あえて誤解を恐れずに申し上げれば
“汝等が身を以って本尊と為す可し”
・・・とあるとおり
“人間の生命を持って本尊とせよ”
・・・とのことでありまして、一切の根本は
“生命 それ自体”
・・・・である。
根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに・・・・・
“人間生命そのものである”
・・・・と言う哲理であり、思想なわけであります。
では、そう、断言できる道理の根拠は何か?
それは同じく同抄の中にこのように申されております。
日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判 日蓮躰具【ていぐ】)
師の日はく
首題も 釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も
梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女も天照大神も
“悉く【ことごとく】日蓮なり と申す心なり”
之に付いて受持法華本門の四部の衆を
悉聖人【しちしょうにん】の化身・・・と思ふ可きか
師の日はく
法界の五大は一身の五大なり 一箇の五大は法界なり
法界即日蓮、日蓮即法界なり
当位 即 妙法不改無作本仏の当躰蓮華【とうたいれんげ】
因果同時の妙法蓮華経の色心直達【しきしんじきだつ】の観
心法妙の振舞【ふるまい】なり 云々
(堀日亨編纂 「富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部」 P.32)
・・・・・と
即ち、日蓮大聖人が仰せられるには
“宇宙法界の全要素”
・・・・・と
“日蓮と言う1個の生命体の全要素”
・・・・・とは
“まったく同じ”
・・・・である
日蓮の振る舞いと言うものは
“人工的な作為を超えたところの
自然奥深い因果に基づいた 心法妙の振る舞い”
・・・・・なのであり それ故に
“この 生命 を 本尊 として大切に出来るのである。”
・・・・・と、言う意味の事を述べておられるのであります。
私どもは、この御教示において“生命の尊厳”の原点を見出し
改めて“人間とは何か?”と言う事を問い直し
この20世紀において“新しき人間の復権”を目指して
“庶民と地域に根ざした斬新なる文化諸活動”を
展開している訳で有ります。
今日のコノ文化祭も、その一つの昇華【しょうか】であります。
(つづく)
“日蓮大聖人は、いったい
何をこの世にお弘めようとなされたのか?”
・・・と言う一点であります。
それは端的に申し上げれば「本尊」であります。
根本として尊敬すべきものとしての「本尊」であります。
人は
“根元に迷えば、枝葉にも迷い
根元に迷いが無ければ 枝葉末節の迷いも
おのずから消えていくものである。”
故に
“一番 大事な 根元の処のもの”
・・・を一切衆生に与え 弘められたのであります。
では、その“本尊の内容”とは何か?
それに関しては御書の中において
「自分は幼少の頃、清澄寺で虚空蔵菩薩に対して
日本一の智者になしたまえ
・・・・・・・と祈って、大智慧を給わった。」
・・・と言う意味の事を述べられておりますが
晩年において、その具体的な内容を
第二祖日興上人に示しております。
即ち「御本尊七箇の相承」の中に
明星直見の本尊の事 如何【いかん】。
師の日はく末代の凡夫、幼稚の為めに
何物を以って【もって】本尊とす可きと虚空蔵に御祈請ありし時
古僧示して言はく・・・・・
“汝等が身を以って本尊と為す可し”
明星の池を見給えばとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり。
“日蓮が影、今の大曼荼羅なり”
(堀日亨編纂 「富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部」 P.32~33)
・・・と言うのがソレであります。
これにつきまして、あえて誤解を恐れずに申し上げれば
“汝等が身を以って本尊と為す可し”
・・・とあるとおり
“人間の生命を持って本尊とせよ”
・・・とのことでありまして、一切の根本は
“生命 それ自体”
・・・・である。
根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに・・・・・
“人間生命そのものである”
・・・・と言う哲理であり、思想なわけであります。
では、そう、断言できる道理の根拠は何か?
それは同じく同抄の中にこのように申されております。
日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判 日蓮躰具【ていぐ】)
師の日はく
首題も 釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も
梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女も天照大神も
“悉く【ことごとく】日蓮なり と申す心なり”
之に付いて受持法華本門の四部の衆を
悉聖人【しちしょうにん】の化身・・・と思ふ可きか
師の日はく
法界の五大は一身の五大なり 一箇の五大は法界なり
法界即日蓮、日蓮即法界なり
当位 即 妙法不改無作本仏の当躰蓮華【とうたいれんげ】
因果同時の妙法蓮華経の色心直達【しきしんじきだつ】の観
心法妙の振舞【ふるまい】なり 云々
(堀日亨編纂 「富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部」 P.32)
・・・・・と
即ち、日蓮大聖人が仰せられるには
“宇宙法界の全要素”
・・・・・と
“日蓮と言う1個の生命体の全要素”
・・・・・とは
“まったく同じ”
・・・・である
日蓮の振る舞いと言うものは
“人工的な作為を超えたところの
自然奥深い因果に基づいた 心法妙の振る舞い”
・・・・・なのであり それ故に
“この 生命 を 本尊 として大切に出来るのである。”
・・・・・と、言う意味の事を述べておられるのであります。
私どもは、この御教示において“生命の尊厳”の原点を見出し
改めて“人間とは何か?”と言う事を問い直し
この20世紀において“新しき人間の復権”を目指して
“庶民と地域に根ざした斬新なる文化諸活動”を
展開している訳で有ります。
今日のコノ文化祭も、その一つの昇華【しょうか】であります。
(つづく)
by eco_eco69
| 2007-11-18 08:57
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