以常見我故 而生恣心 放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身          南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。


by eco_eco69
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カテゴリ:正行・助行( 7 )

勤行について再び解説


以前、五座、三座の形式について解説した事がありましたが
http://smw69.exblog.jp/4501397を参照の事)
津波返しのように、その事で「物言い」がつけられましたので
もう少し詳しい解説を含めてこの場で回答したいと思います


貴方が、正宗の人間なのか学会の人間なのかは存じませんが
あの勤行の解説については、
ちゃんと「慧妙-280号,281号」の意見や

http://homepage3.nifty.com/y-maki/emyou/280-1.html
http://homepage3.nifty.com/y-maki/emyou/281-1.html

下記の示すsiteの意見を考慮した上で解説したもです

http://blog.goo.ne.jp/kim_jung_nam/e/8862c24f6bb551cce790dd4f217cd894

http://blog.alc.co.jp/d/2000570?nid=20040910110254


上記のログのように、過去、五座を、三座を強制するような
誤解を招く指導が池田氏よりなされていた事は確認しております
この結果、豊川信金事件の方程式のごとく
会員達は
「五座、三座を行なわないと生活のリズムが狂い 罰があたるんだ」
・・・と脅迫観念に捉われてしまい
この事によって、トラウマに陥った人も居れば
挫折して辞めてしまったり敵に廻ったりした信者も居た筈です

中には創価御得意の「獅子身中の虫」と見られ
追い出された信者も居たんじゃないですか?
結局、振り回されるのは末端の会員たちや地元の幹部なんです

しかし、上記二つのような指導をしておきながら
創価学園の生徒に対しては「今の形式でやってもよい」 …と
二枚舌を出していたのをご存知でしょうか?
何せ、私の身内に学園出身の方がいるものですから
その話は伺っておりますし 
出身者が何よりもその事をよく知っているんじゃないですか?

また、今回、SGI形式の勤行にした一つに
「竜の口の法難」の際、今の形の勤行をしていたと
理由が書かれておりましたよねー
池田氏の著書「旭日の光」で確認しております
これは何の文献で確認された事なのでしょうか?

この場合、文献が無いと池田氏の誇大妄想になってしまい
意外な事に説得力が失われてしまうんです

だから「この事に対するフォローやケアなどが必要だ」と
私は主張しているのですが
創価学会はそれを行なっておりません
しかも破門されてから13年目で
今更ながら 何故、勤行の形式を変えたのでしょうか?
この説明も不十分なんですよ
それどころか開き直ってしまい
日顕宗顔負けの
ふざけた座談会をする始末じゃないですか 

聖教の あの見出しを見てても解かりますが
内心、信者をコバカにして舐めきった態度をとっていると
受け止められてもおかしくはない
あの見出しでは妙観講や脱会した人が怒っても当然だし
信者ですら内心怒ると思いますよ

しかも、池田氏に関する裁判記録だったかに勤行0分なんていうのが
ネット上や妙観の調べなどで発覚した為
余計、突っ込まれやすい環境になっているよねー

更に、間の悪い事にその勤行について
熱く語っていた面子が
幹部会の席上 公衆の面前で 池田先生より叱責され
晒し者にされた上 解任された5代目会長やら
女性問題を起こし池田先生にケダモノ呼ばわりされ 更迭された
弓○元全国男子部長達だったから
余計 ( ゚д゚)ポカーン・・・・

しかも弓○氏の勤行論は余りにもふざけすぎていたのか
見事な位、妙観に反論され破釈されていませんか?

そりゃそうだ、勤行は題目の部分を除くと
大体、朝30分、夕方15分位は掛かる
慣れてくると、朝15分夕方7分前後で題目でしょ?

また、どういう訳かこの事が聖教の公式発表より
慧妙の方が早く報じていたのが余りにも不可解


結局、破門されてから16~7年以上経ちますが
こんな態度で双方とも罵りあったり、思いつきのように教義を変えたり
坊さんや トップや幹部のおかしな態度ばかり続いたせいか
余り言いたくはなかったのですが、その勤行形式に変更した直後ですよ
皮肉な事に中越地震アジアの大津波が起きたのは・・・
しかも中越震災に至っては 変更した直後の10月ですよ

これ等は、何を意味しているんですか?

私は人の不幸云々を言っているのではなく、
この時期から 余りにも偶然が重なりすぎているんですよ
ひょっとしたら信仰がおかしくなったのでは? 
・・・とも疑られても、おかしくはない


ただ、堀日亨氏が編纂された「富士宗要学全集(相伝編)」によれば
確か曼荼羅を書写し下付される際も 
学会が行なっている形式の勤行をするはずです

それと、私は
ちゃんと、「慧妙」で指摘していた事も書いていたでしょうに・・・
読みませんでしたか??

“但し、日寛上人は
戸田城聖氏が定めた形式に近い勤行をしていた”
 ・・と

これは日寛上人も五座、三座をしており 
コレが理想だとも言っておられたので
その文証に従って、戸田先生は勤行の形式を
正宗と学会に定めさせたんですよ
その事実を慧妙は端折っているじゃないですか

事実 淵源について、色々調べましたが
一座だったり、六座だったりバラバラでしたよ
これは富士宗要学全集にも収録されておりますけれど
コレについて説明が出来ますか?
しかも破門される以前の本ですよ 

「たまたま来たもの」さんは
御義口伝と如来寿量品を照らし合わせて 意味を解説してください
恐らく自我得仏来から始まる 
あの部分が一番要なんだと言う事が解かる筈ですよ

第一、正宗の勤行は今の形式で勤行をしていたじゃないですか
また大石寺の勤行は如来寿量品の
フルコーラスが入っていたものの
確か、方便、如来寿量品+題目+御観念文では
無かったのではないでしょうか?

それとあの解説は私の主観が入っているものの
基本は戸田先生の講義から解説しているものなんですよ
経文の意味や御観念文の意味も含めてねw


ところで、如来寿量品の意味は
南無妙法蓮華経の極意について書いてあるんですよ
何故、釈尊は仏になったのか?
その事が書かれていた筈です

如来寿量品はその前の勇出品からの続きなんですよ 
要は地からゴゴゴ・・・と菩薩が顕れ 民衆は驚く訳です
その事について釈尊は民衆に向かい説いたのが如来寿量品なんです
前半は説明で後半は(所謂、自我得仏来から始まるアレ)は
南無妙法蓮華経を唱えればどうなるのか?
大聖人の仏法に従えばどうなるのか? これが書かれている筈だよ

・・・で 個人的には勤行の形式についてどう思っているのか

方便品の意味と如来寿量品の意味を身をもって読めば
今の形式でも構わないし、五座三座でも構わないんですよ
「自我げ」だけじゃ物足りないのであればフルに読んでもいいし…

あくまでも助行なので
その助行がしっかり所破されていれば
それで、よろしいのではないでしょうか?

ただ、正宗側の意見も一理あるし
また戸田城聖氏が決めた方針でもあった為 
現在は、状況に応じた勤行の形式をとっております

それでも、2007年より状況判断の基準を変えました
即ち 正行中心を軸にして
五座三座にするか 新形式の勤行にするか を判断しております
(今までは、会合時を除き 五座三座)

だから時には題目だけなんていう場合もあります


◆ こんな 意思薄弱な 
  出鱈目な壷売り幹部、指導者、坊主共に呪いの一票を
  南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
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by eco_eco69 | 2007-02-15 03:04 | 正行・助行

【方便品(1)】



「妙法蓮華経方便品第二」

爾時世尊。従三昧 安詳而起。告舎利弗 諸仏智慧。
甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知。

所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。
勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣解難。

舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。
引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足 

舎利弗。如来知見。広大深遠。
無量無碍。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。
深入無際。成就一切。未曾有法。

舎利弗。如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。
舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。

止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。
唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。

所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。
如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。


爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言

 世雄不可量 諸天及世人 一切衆生類 無能知仏者
 仏力無所畏 解脱諸三昧 及仏諸余法 無能測量者
 本従無数仏 具足行諸道 甚深微妙法 難見難可了
 於無量億劫 行此諸道已 道場得成果 我已悉知見
 如是大果報 種種性相義 我及十方仏 乃能知是事
 是法不可示 言辞相寂滅 諸余衆生類 無能得解者
 除諸菩薩衆 信力堅固者 諸仏弟子衆 曾供養諸仏
 一切漏已尽 住是最後身 如是諸人等 其力所不堪
 仮使満世間 皆如舎利弗 尽思共度量 不能測仏智
 正使満十方 皆如舎利弗 及余諸弟子 亦満十方刹
 尽思共度量 亦復不能知 辟支仏利智 無漏最後身
 亦満十方界 其数如竹林 斯等共一心 於億無量劫
 欲思仏実智 莫能知少分 新発意菩薩 供養無数仏
 了達諸義趣 又能善説法 如稲麻竹葦 十方刹充満
 一心以妙智 於恒河沙劫 咸皆共思量 不能知仏智
 不退諸菩薩 其数如恒沙 一心共思求 亦復不能知
 又告舎利弗 無漏不思議 甚深微妙法 我今已具得
 唯我知是相 十方仏亦然 舎利弗当知 諸仏語無異
 於仏所説法 当生大信力 世尊法久後 要当説真実
 告諸声聞衆 及求縁覚乗 我令脱苦縛 逮得涅槃者
 仏以方便力 示以三乗教 衆生処処著 引之令得出

爾時大衆中。有諸声聞。漏尽阿羅漢。阿若陳如等。千二百人。
及発声聞。辟支仏心。比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。各作是念 

今者世尊。何故慇懃。称歎方便。而作是言。
仏所得法。甚深難解。有所言説。意趣難知。一切声聞。辟支仏。
所不能及。仏説一解脱義。我等亦得此法。到於涅槃。
而今不知。是義所趣。

爾時舎利弗。知四衆心疑。自亦未了。而白仏言。

世尊。何因何縁。慇懃称歎。諸仏第一方便。甚深微妙。難解之法。
我自昔来。未曾従仏。聞如是説。今者四衆。咸皆有疑。唯願世尊。
敷演斯事。世尊何故。慇懃称歎。甚深微妙。難解之法。

爾時舎利弗。欲重宣此義。而説偈言

 慧日大聖尊 久乃説是法 自説得如是 力無畏三昧
 禅定解脱等 不可思議法 道場所得法 無能発問者
 我意難可測 亦無能問者 無問而自説 称歎所行道
 智慧甚微妙 諸仏之所得 無漏諸羅漢 及求涅槃者
 今皆堕疑網 仏何故説是 其求縁覚者 比丘比丘尼
 諸天龍鬼神 及乾闥婆等 相視懐猶豫 瞻仰両足尊
 是事為云何 願仏為解説 於諸声聞衆 仏説我第一
 我今於自智 疑惑不能了 為是究竟法 為是所行道
 仏口所生子 合掌瞻仰待 願出微妙音 時為如実説
 諸天龍神等 其数如恒沙 求仏諸菩薩 大数有八万
 又諸万億国 転輪聖王至 合掌以敬心 欲聞具足道

爾時仏告。
舎利弗。止止。復説。若説是事。一切世間。諸天及人。皆当驚疑。

舎利弗。重白仏言。
世尊。唯願説之。唯願説之。所以者何。
是会無数。百千万億 阿僧祇衆生。曾見諸仏。
諸根猛利。智慧明了。聞仏所説。則能敬信。

爾時舎利弗。欲重宣此義。而説偈言
法王無上尊 唯説願勿慮 是会無量衆 有能敬信者

仏復止舎利弗。
若説是事。一切世間。天人阿修羅。皆当驚疑。増上慢比丘。将墜大坑。

爾時世尊。重説偈言
止止不須説 我法妙難思 諸増上慢者 聞必不敬信

爾時舎利弗。重白仏言。
世尊。唯願説之。唯願説之。
今此会中。如我等比。百千万億。世世已曾。従仏受化。如此人等。
必能敬信。長夜安穏。多所饒益。

爾時舎利弗。欲重宣此義。而説偈言

 無上両足尊 願説第一法 我為仏長子 唯垂分別説
 是会無量衆 能敬信此法 仏已曾世世 教化如是等
 皆一心合掌 欲聴受仏語 我等千二百 及余求仏者
 願為此衆故 唯垂分別説 是等聞此法 則生大歓喜

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by eco_eco69 | 2007-01-11 18:22 | 正行・助行

【方便品(2)】


爾時世尊。告舎利弗。
汝已慇懃三請。豈得不説。汝今諦聴。善思念之。吾当為汝。分別解説。

説此語時。会中有比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。五千人等。
即従座起。礼仏而退。所以者何。此輩罪根深重。及増上慢。
未得謂得。未証謂証。有如此失。是以不住。世尊黙然。而不制止。

爾時仏告。舎利弗。我今此衆。
無復枝葉。純有貞実。舎利弗。如是増上慢人。
退亦佳矣。汝今善聴。当為汝説。

舎利弗言。唯然世尊。願楽欲聞。

仏告舎利弗。
如是妙法。諸仏如来。時乃説之。如優曇鉢華。時一現耳。
舎利弗。汝等当信。仏之所説。言不虚妄。
舎利弗。諸仏随宜説法。意趣難解。所以者何。我以無数方便。
種種因縁。譬喩言辞。演説諸法。是法非思量分別。之所能解。
唯有諸仏。乃能知之。所以者何。
諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。
舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。諸仏世尊。
欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。
欲示衆生。仏知見故。出現於世。
欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。
欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。
舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。

仏告舎利弗。

諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。
唯以仏之知見。示悟衆生。
舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。
舎利弗。一切十方諸仏。法亦如是。
舎利弗。過去諸仏。以無量無数方便。
種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。是法皆為。一仏乗故。
是諸衆生。従諸仏聞法。究竟皆得。一切種智。
舎利弗。未来諸仏。出当於世。
亦以無量。無数方便。種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。
是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。従仏聞法。究竟皆得。一切種智。
舎利弗。現在十方。無量百千万億。仏土中。
諸仏世尊。多所饒益。安楽衆生。是諸仏。
亦以無量。無数方便。種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。
是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。従仏聞法。究竟皆得。一切種智。
舎利弗。是諸仏。但教化菩薩。欲以仏之知見。示衆生故。
欲以仏之知見。悟衆生故。欲令衆生。入仏知見道故。
舎利弗。我今亦復如是。知諸衆生。有種種欲。深心所著。随其本性。
以種種因縁。譬喩言辞。方便力故。而為説法。
舎利弗。如此皆為。得一仏乗。一切種智故。
舎利弗。十方世界中。尚無二乗。何況有三。
舎利弗。諸仏出於。五濁悪世。
所謂劫濁。煩悩濁。衆生濁。見濁。命濁。如是。
舎利弗。劫濁乱時。衆生垢重。慳貪嫉妬。
成就諸不善根故。諸仏以方便力。於一仏乗。分別三説。
舎利弗。若我弟子。自謂阿羅漢。辟支仏者。不聞不知。諸仏如来。
但教化菩薩事。此非仏弟子。非阿羅漢。非辟支仏。
又舎利弗。是諸比丘。比丘尼。自謂已得。阿羅漢。是最後身。
究竟涅槃。便不復志求。
阿耨多羅三藐三菩提。当知此輩。皆是増上慢人。
所以者何。若有比丘。実得阿羅漢。若不信此法。無有是処。
除仏滅度後。現前無仏。
所以者何。仏滅度後。如是等経。受持読誦。解其義者。是人難得。
若遇余仏。於此法中。便得決了。
舎利弗。汝等当。一心信解。受持仏語。
諸仏如来。言無虚妄。無有余乗。唯一仏乗。

爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言

 比丘比丘尼 有懐増上慢 優婆塞我慢 優婆夷不信
 如是四衆等 其数有五千 不自見其過 於戒有欠漏
 護惜其瑕疵 是小智出已 衆中之糟糠 仏威徳故去
 斯人尠福徳 不堪受是法 此衆無枝葉 唯有諸貞実
 舎利弗善聴 諸仏所得法 無量方便力 而為衆生説
 衆生心所念 種種所行道 若干諸欲性 先世善悪業
 仏悉知是已 以諸縁譬喩 言辞方便力 令一切歓喜
 或説修多羅 伽陀及本事 本生未曾有 亦説於因縁
 譬喩竝祇夜 優婆提舎経 鈍根楽小法 貧著於生死
 於諸無量仏 不行深妙道 衆苦所悩乱 為是説涅槃
 我設是方便 令得入仏慧 未曾説汝等 当得成仏道
 所以未曾説 説時未至故 今正是其時 決定説大乗
 我此九部法 随順衆生説 入大乗為本 以故説是経
 有仏子心浄 柔軟亦利根 無量諸仏所 而行深妙道
 為此諸仏子 説是大乗経 我記如是人 来世成仏道
 以深心念仏 修持浄戒故 此等聞得仏 大喜充身
 仏知彼心行 故為説大乗 声聞若菩薩 聞我所説法
 乃至一偈於 皆成仏無疑 十方仏土中 唯有一乗法
 無二亦無三 除仏方便説 但以仮名字 引導於衆生
 説仏智慧故 諸仏出於世 唯此一事実 余二則非真
 終不以小乗 衆生於済度 仏自住大乗 如其所得法
 定慧力荘厳 以此度衆生 自証無上道 大乗平等法
 若以小乗化 乃至於一人 我則堕慳貪 此事為不可
 若人信帰仏 如来不欺誑 亦無貧嫉意 断諸法中悪
 故仏於十方 而独無所畏 我以相厳身 光明照世間
 無量衆所尊 為説実相印 舎利弗当知 我本誓願立
 欲令一切衆 如我等無異 如我昔所願 今者已満足
 化一切衆生 皆令入仏道 若我遇衆生 尽教以仏道
 無智者錯乱 迷惑不受教 我知此衆生 未曾修善本
 堅著於五欲 痴愛故生悩 以諸欲因縁 墜堕三悪道
 輪廻六趣中 備受諸苦毒 受胎之微形 世世常増長
 薄徳少福人 衆苦所逼迫 入邪見稠林 若有若無等
 依止此諸見 具足六十二 深著虚妄法 堅受不可捨
 我慢自矜高 諂曲心不実 於千万億劫 不聞仏名字
 亦不聞正法 如是人難度 是故舎利弗 我為設方便
 説諸尽苦道 示之以涅槃 我雖説涅槃 是亦非真滅
 諸法従本来 常自寂滅相 仏子道行已 来世得作仏
 我有方便力 開示三乗法 一切諸世尊 皆説一乗道
 今此諸大衆 皆応除疑惑 諸仏語無異 唯一無二乗
 過去無数劫 無量滅度仏 百千万億種 其数不可量
 如是諸世尊 種種縁譬喩 無数方便力 演説諸法相
 是諸世尊等 皆説一乗法 化無量衆生 令入於仏道
 又諸大聖主 知一切世間 天人群生類 深心之所欲
 更以異方便 助顕第一義 若有衆生類 値諸過去仏
 若聞法布施 或持戒忍辱 精進禅智等 種種修福徳
 如是諸人等 皆已成仏道 諸仏滅度已 若人善軟心
 如是諸衆生 皆已成仏道 諸仏滅度已 供養舎利者
 起万億種塔 金銀及頗黎 与碼碯 瑰瑠璃珠
 清浄広厳飾 荘校於諸塔 或有起石廟 栴檀及沈水
 木樒竝余材 甎瓦泥土等 若於曠野中 積土成仏廟
 乃至童子戯 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道
 若人為仏故 建立諸形像 刻彫成衆相 皆已成仏道
 或以七宝成 鍮鉐赤白銅 白鑞及鉛錫 鉄木及与泥
 或以膠漆布 厳飾作仏像 如是諸人等 皆已成仏道
 綵画作仏像 百福荘厳相 自作若使人 皆已成仏道
 乃至童子戯 若艸木及筆 或以指爪甲 而画作仏像
 如是諸人等 漸漸積功徳 具足大悲心 皆已成仏道
 但化諸菩薩 度脱無量衆 若人於塔廟 宝像及画像
 以華香旛蓋 敬心而供養 若使人作楽 撃鼓吹角貝
 簫笛琴箜篌 琵琶鐃銅 如是衆妙音 尽持以供養
 或以歓喜心 歌唄頌仏徳 乃至一小音 皆已成仏道
 若人散乱心 乃至以一華 供養於画像 漸見無数仏
 或有人礼拝 或復但合掌 乃至挙一手 或復少低頭
 以此供養像 漸見無量仏 自成無上道 広度無数衆
 入無余涅槃 如薪尽火滅 若人散乱心 入於塔廟中
 一称南無仏 皆已成仏道 於諸過去仏 現在或滅後
 若有聞是法 皆已成仏道 未来諸世尊 其数無有量
 是諸如来等 亦方便説法 一切諸如来 以無量方便
 度脱諸衆生 入仏無漏智 若有聞法者 無一不成仏
 諸仏本誓願 我所行仏道 普欲令衆生 亦同得此道
 未来世諸仏 雖説百千億 無数諸法門 其実為一乗
 諸仏両足尊 知法常無性 仏種縁従起 是故説一乗
 是法住法位 世間相常住 於道場知已 導師方便説
 天人所供養 現在十方仏 其数如恒沙 出現於世間
 安穏衆生故 亦説如是法 知第一寂滅 以方便力故
 雖示種種道 其実為仏乗 知衆生諸行 深心之所念
 過去所習業 欲性精進力 及諸根利鈍 以種種因縁
 譬喩亦言辞 随応方便説 今我亦如是 安穏衆生故
 以種種法門 宣示於仏道 我以智慧力 知衆生性欲
 方便説諸法 皆令得歓喜 舎利弗当知 我以仏眼観
 見六道衆生 貧窮無福慧 入生死険道 相続苦不断
 深五於欲著 如牛愛尾 以貪愛自蔽 盲瞑無所見
 不求大勢仏 及与断苦法 深入諸邪見 以苦欲捨苦
 為是衆生故 而起大悲心 我始坐道場 観樹亦経行
 於三七日中 思惟如是事 我所得智慧 微妙最第一
 衆生諸根鈍 著楽痴所盲 如斯之等類 云何而可度
 爾時諸梵王 及諸天帝釈 護世四天王 及大自在天
 竝余諸天衆 眷属百千万 恭敬合掌礼 請我転法輪
 我即自思惟 若但讃仏乗 衆生没在苦 不能信是法
 破法不信故 墜於三悪道 我寧不説法 疾入於涅槃
 尋念過去仏 所行方便力 我今所得道 亦応説三乗
 作是思惟時 十方仏皆現 梵音慰諭我 善哉釈迦文
 第一之導師 得是無上法 随諸一切仏 而用方便力
 我等亦皆得 最妙第一法 為諸衆生類 分別説三乗
 少智楽小法 不自信作仏 是故以方便 分別説諸果
 雖復説三乗 但為教菩薩 舎利弗当知 我聞聖師子
 深浄微妙音 喜称南無仏 復作如是念 我出濁悪世
 如諸仏所説 我亦随順行 思惟是事已 即趣波羅・
 諸法寂滅相 不可以言宣 以方便力故 為五比丘説
 是名転法輪 便有涅槃音 及以阿羅漢 法僧差別名
 従久遠劫来 讃示涅槃法 生死苦永尽 我常如是説
 舎利弗当知 我見仏子等 志求仏道者 無量千万億
 咸以恭敬心 皆来至仏所 曾従諸仏聞 方便所説法
 我即作是念 如来所以出 為説仏慧故 今正是其時
 舎利弗当知 鈍根小智人 著相慢者 不能信是法
 今我喜無畏 於諸菩薩中 正直捨方便 但説無上道
 菩薩聞是法 疑網皆已除 千二百羅漢 悉亦当作仏
 如三世諸仏 説法之儀式 我今亦如是 説無分別法
 諸仏興出世 懸遠値遇難 正使出于世 説是法復難
 無量無数劫 聞是法亦難 能聴是法者 斯人亦復難
 譬如優曇華 一切皆愛楽 天人所希有 時時乃一出
 聞法歓喜讃 乃至発一言 則為已供養 一切三世仏
 是人甚希有 過於優曇華 汝等勿有疑 我為諸法王
 普告諸大衆 但以一乗道 教化諸菩薩 無声聞弟子
 汝等舎利弗 声聞及菩薩 当知是妙法 諸仏之秘要
 以五濁悪世 但楽著諸欲 如是等衆生 終不求仏道
 当来世悪人 聞仏説一乗 迷惑不信受 破法堕悪道
 有慙愧清浄 志求仏道者 当為如是等 広讃一乗道
 舎利弗当知 諸仏法如是 以万億方便 随宜而説法
 其不習学者 不能暁了此 汝等既已知 諸仏世之師
 随宜方便事 無復諸疑惑 心生大歓喜 自知当作仏



【解説】
創価学会と日連正宗では
線の部分を3回繰り返して終了する 斜字の部分読経しない
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by eco_eco69 | 2007-01-11 18:21 | 正行・助行

【如来寿量品】


「南無妙法蓮華経 如来寿量品 本第十六」

爾時仏告諸菩薩。及一切大衆。諸善男子。汝等当信解。如来誠諦之語。
復告大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。
又復告諸大衆。汝等当信解。如来誠諦語。
是時菩薩大衆。弥勒為首。合掌白仏言。
世尊唯願説之。我等当信受仏語。如是三白已復言。唯願説之。
我等当信受仏語。爾時世尊。知諸菩薩。三請不止。
而告之言 汝等諦聴。如来秘密。神通之力。

一切世間。天人。及阿修羅。皆謂今釈迦牟尼仏。出釈氏宮。
去伽耶城不遠。坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。然善男子。
我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他劫。

譬如五百千万億那由他阿僧祇。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。
過於東方。五百千万億。那由他阿僧祇国。
乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。意於云何。是諸世界。
可得思惟校計。知其。数不。

弥勒菩薩等。倶白仏言。世尊。是諸世界。
無量無辺。非算数所知。亦非心力所及。一切声聞。辟支仏。
以無漏智。不能思惟。知其限数。我等住阿惟越致地。
於是事中。亦所不達。世尊。如是諸世界。無量無辺。

爾時仏告。大菩薩衆。諸善男子。今当分明。宣語汝等。是諸世界。
若著微塵。及不著者。尽以為塵。一塵一劫。我成仏已来。
復過於此。百千万億。那由他。阿僧祇劫。

自従是来。我常在此。娑婆世界。説法教化。
亦於余処。百千万億。那由他阿僧祇国。
導利衆生。諸善男子。於是中間。
我説燃燈仏等。又復言其。入於涅槃。如是皆以。方便分別。

諸善男子。若有衆生。来至我所。我以仏眼。観其信等。
諸根利鈍。随所応度。処処自説。名字不同。年紀大小。
亦復現言。当入涅槃。又以種種方便。説微妙法。能令衆生。発歓喜心。

諸善男子。如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者。
為是人説。我少出家。得阿耨多羅三藐三菩提。然我実成仏已来。
久遠若斯。但以方便。教化衆生。令入仏道。作如是説。

諸善男子。如来所演経典。皆為度脱衆生。
或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。
諸所言説。皆実不虚。

所以者何。如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。
及滅度者。非実。非虚。非如。非異。不如三界。見於三界。
如斯之事。如来明見。無有錯謬。

以諸衆生。有種種性。種種欲。種種行。種種憶想。
分別故。欲令生諸善根。以若干因縁。譬喩言辞。種種説法。所作仏事。
未曾暫廃。如是我成仏已来。甚大久遠。
寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。

諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。
今猶未尽。復倍上数。然今非実滅度。
而便唱言。当取滅度。如来以是方便。教化衆生。

所以者何。若仏久住於世。薄徳之人。不種善根。
貧窮下賎。貧著五欲。入於憶想。妄見網中。

若見如来。常在滅。便起恣。而懐厭怠。不能生於。
難遭之想。恭敬之心。是故如来。
以方便説。比丘当知。諸仏出世。難可値遇。

所以者何。諸薄徳人。過無量。百千万億劫。
或有見仏。或有者見。
以此事故。我作是言。諸比丘。如来難可得見。斯衆生等。聞如是語。
必当生於。難遭之想。心懐恋慕。渇仰於仏。便種善根。
是故如来。雖不実滅。而言滅度。又善男子。諸仏如来。
法皆如是。度為衆生。皆実不虚。

譬如良医。智慧聡達。明練方薬。善治衆病。
其人多諸子息。若十二十。乃至百数。以有事縁。遠至余国。

諸子於後。飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地。
是時其父。還来帰家。諸子飲毒。或失本心。或不失者。
遥見其父。皆大歓喜。拝跪問訊。善安穏帰。我等愚痴。誤服毒薬。
願見救療。更賜寿命。父見子等。苦悩如是。依諸経方。求好薬草。
色香美味。皆悉具足。擣篩和合。与子令服。而作是言。此大良薬。
色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦悩。無復衆患。

其諸子中。不失心者。見此良薬。色香具好。
即便服之。病尽除愈。余心失者。見其父来。雖亦歓喜問訊。
求索治病。然与其薬。而不肯服。

所以者何。毒気深入。失本心故。於此好色香薬。
而謂不美。父作是念。此子可愍。為毒所中。心皆顛倒。雖見我喜。
求索救療。如是好薬。而不肯服。我今当設方便。令服此薬。
即作是言。汝等当知。我今衰老。死時已至。是好良薬。
今留在此。汝可取服。勿憂不差。

作是教已。復至他国。遣使還告。汝父已死。
是時諸子。聞父背喪。心大憂悩。而作是念。
若父在者。慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪他国。
自惟孤露。無復恃怙。常懐悲感。心遂醒悟。乃知此薬。色香美味。
即取服之。毒病皆愈。其父聞子。悉已得差。尋便来帰。咸使見之。

諸善男子。於意云何。頗有人能。
説此良医。虚妄罪不。不也世尊。仏言。我亦如是。成仏已来。
無量無辺。百千万億。那由他阿僧祇劫。
為衆生故。以方便力。言当滅度。亦無有能。如法説我。虚妄過者。
爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言

 自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道

 爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度
 常住此説法

 我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
 衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
 衆生既信伏 質直意柔軟
 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山

 我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅
 余国有衆生 恭敬信楽者 我復於彼中 為説無上法

 汝等不聞此 但謂我滅度 我見諸衆生 没在於苦海
 故不為現身 令其生渇仰 因其心恋慕 乃出為説法
 神通力如是

 於阿僧祇劫 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽
 大火所焼時 我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣
 種種宝荘厳 宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓
 常作衆妓楽 雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀
 而衆見焼尽 憂怖諸苦悩 如是悉充満

 是諸罪衆生 以悪業因縁 過阿僧祇劫 不聞三宝名

 諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法
 或時為此衆 説仏寿無量 久乃見仏者 為説仏難値
 我智力如是

 慧光照無量 寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者
 勿於此生疑 当断令永尽

 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故 実在而言死
 無能説虚妄

 我亦為世父 救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅

 以常見我故 而生恣心 放逸著五欲 堕於悪道中
 我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法

 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身 



【解説】

寿量品は二つの構成でなりたっており
線を引いた部分は 自我偈と呼ばれて 立て分けて読む
また、「南無妙法蓮華経如来寿量品16」と書いているが
これは、大聖人様が「御義口伝」で書かれた際 認められた文章で
通常は「妙法蓮華経如来寿量品本第16」で読経が始まる

尚 創価学会では 2004年10月より
先の斜字を除く方便品の線を引いた部分まで
寿量品の線を引いた部分(自我偈)
1回だけ読経し題目に移る所謂、SGI方式へと変更した

それ以前の勤行と日連正宗の勤行では、
朝、2回目の読教時と夕方1回目の読教時に 全部読み
それ以外は先の斜字を除く方便品の線を引いた部分までと
自我偈の部分のみ
朝は4回 夕方は2回繰り返し読み 御祈念に入る
 
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by eco_eco69 | 2007-01-10 15:00 | 正行・助行

【朝の勤行】


1:御本尊に向かい 鐘を鳴らし 題目三唱


2:諸天供養

a.東方もしくは 御本尊に向かい 題目三唱
b.御祈念

 [諸天善神の守護に感謝し威光勢力が増すよう法味を送ります。]

c.題目三唱


3:鐘を鳴らし 斜字の部分を除く 方便品を読経
4:鐘を鳴らし 寿量品 (自我偈) を読経
5:鐘を鳴らし題目(時間は自由 題目終了時は鐘を鳴らす)


6:御本尊への報恩感謝

a.題目三唱後 御祈念

  [一閻浮提総与三大秘法の大御本尊に南無し奉り
   報恩感謝を申し上げます]

  [末法の御本仏、日連大聖人に南無し奉り
   報恩感謝を申し上げます]

  [日興上人に南無し奉り 報恩感謝を申し上げます)

  [日目上人に報恩感謝を申し上げます]


7:広宣流布御祈念

a.題目三唱後 御祈念

 [広宣流布大願成就と
  創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます]

 [創価学会、初代、2代、3代の会長を広布の指導者と仰ぎ
 その死身弘法の御徳に報恩感謝を申し上げます]


8:諸願祈念ならびに回向供養

a.題目三唱後 御祈念と回向 

  [ 自身の人間革命と宿命転換を祈り、種々の願いが成就しますよう
   御祈念申し上げます・・・ 
   (個人の御諸願は 全て、ここで行なう) ]

  [ 先祖代々ならびに会員、友人の諸精霊追善供養の為に
   (回向中は 鐘を鳴らす) ]

b・題目三唱後 御祈念

  [世界平和と一切衆生の幸福の為に]


9:鐘を鳴らし題目三唱後、勤行終了





【夕方の勤行】


夕方の勤行は2:諸天供養が省略される

従って、夕方は
1:御本尊に向かい 鐘を鳴らし 題目三唱後
  斜字の部分を除く 方便品の読経からスタートし
以後、4:~9:まで朝と同じ事を行い 勤行終了
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by eco_eco69 | 2007-01-09 15:00 | 正行・助行

- はじめに -

創価学会は2004年10月までこれから解説する形式で
毎日勤行をしていた
また、日連正宗も御観念文の形式は異なるものの
現在もこの形式でおこなって、定着しているようである
即ち、朝は五回方便品、寿量品、御祈念を繰り返し(夕方は3回)
題目を上げるやり方である

しかし、この形式で定着させたのは戸田城聖氏の時代であり
いわば、創価学会が独自に制定したやり方だと言ってもよい
過去の文献を読むと方便品寿量品は読経するものの
本来、正宗では勤行の形式が定まっていなかったようである
(但し、日寛上人は戸田城聖氏が定めた形式に近いの勤行をしていた)

しかし、この形式で勤行を行なうと
慣れない人は朝は30分もかかり慣れている人でも15分は最低掛かる為
実用的ではなかったのが実情でもある。
元来、日連系の宗教は南無妙法蓮華経を唱える事が
勤行でありメインだった

しかし原型である法華経を身をもって体得させる為
僧クラスになると借文と言う形で
肝心な部分である方便品、寿量品を唱え勤行をさせていた 
従って当初、在家は題目だけであり
今の形では勤行をおこなっていない

その為か創価学会では
2004年10月より、突然、勤行の形式を変えた
しかし、何故、今頃になったのか
この点については何も説明されていないのが現状である
また、過去、5座3座の形式を強制する事を仄めかす
指導があった事も否めない

従って、この発言に対する
説明責任が果たされていないのが現状である事を明記しておく
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by eco_eco69 | 2007-01-06 15:15 | 正行・助行
【朝の勤行】


1:御本尊に向かい 鐘を鳴らし 題目三唱


2:初座:諸天供養

a.東方に向かい 題目三唱 (初座だけは鐘を一切鳴らさない)
b.斜字の部分を除く 方便品を読経
c.寿量品(自我偈のみ)を読経
d.題目三唱

e.題目三唱後 御祈念

 [諸天善神の昼夜に渡る守護に感謝し威光勢力、法味倍増の為に]

【解説】
1991年、日連正宗破門後の御祈念は
上記の御観念文で御祈念をしていた
従って、それ以前の御観念文ならびに日連正宗のご観念文も下記の通り

[生身妙覚の御利益
 大梵天王、帝釈天王、大日天王、大月天王、大明星天王等
 諸天善神、諸天昼夜、常為法故爾衛護之御利益
 法身倍増の御為に
]

従って、御観念文が二通りになってしまう為
以後 斜字表記は1991年以前の御観念文として表記する。

尚、余談ですが 上記の御観念文に関しても
昭和40年頃から制定されていた様子で
戸田城聖氏の講義とは少し違う
(戸田氏の説明によると 上記の諸天善神五神の他
 天照大神正八幡大菩薩が加わっていたのだが
 何時の間にか削除されてしまった
 天照大神偉大なる女性か キリストですよ)



f.題目三唱


3:二座:本尊供養

a.御本尊に向かい 鐘を鳴らし 斜字の部分を除く 方便品を読経
b.鐘を鳴らし 寿量品を全て読経する (所謂 長行)
c.題目三唱

d.鐘を鳴らし 題目三唱後、御祈念

 [一閻浮提総与、三大秘法の大御本尊に南無し奉り
  報恩感謝を申し上げます]

 [南無本門寿量品の肝心、文低秘沈の大法、本地難思 境智冥合
  久遠元初 自受用報身如来の御当体
  十界本有常住 事の一念三千 人法一箇 独一本門戒壇の大御本尊
  御威光倍増 御利益広大 御報恩謝徳の御為に
]

e.題目三唱


4:三座:

a.鐘を鳴らし 斜字の部分を除く 方便品を読経
b.鐘を鳴らし寿量品(自我偈のみ)を読経
c.題目三唱
d.鐘を鳴らし 題目三唱後、御祈念

 [末法の御本仏、日連大聖人に南無し奉り報恩感謝を申し上げます]

 [南無本因妙の教主 一身即三身 三身即一身
  三世常恒の御利益、主師親三徳 大慈大非 宗祖 日連大聖人
  御威光倍増 御利益広大 御報恩謝徳の御為に
]

e.題目三唱後 御祈念

 [本門弘通の大導師、日興上人に南無し奉り 報恩感謝を申し上げます]

 [南無法水蘯瓶 唯我与我、本門弘通の大導師
  第二白蓮阿闍梨 日興上人
  御威光倍増 御利益広大 御報恩謝徳の御為に
]  

f.題目三唱後 御祈念

 [一閻浮提の御座主、日目上人に報恩感謝を申し上げます]

 [南無一閻浮提の御座主、第三新田郷阿闍梨日目上人
  御威光倍増 御利益広大 御報恩謝徳の御為に
]

【解説】
1991年までは日目上人の項にも「南無」の二文字が入っていたが
創価学会の解釈だと“これは要らない”と言う事である
因みに日目上人が御遷化されたのは
日興上人が御遷化されて一年後の事で天皇陛下を折伏する為
京都へ向かわれる途中、美濃の垂井で体調を崩し無念となった
その為、一閻浮提の譲り状を与えられ 南無の称号がついたようだ
また、日連正宗の言い伝えによると
「広宣流布の暁には日目上人の生まれ変わりが現れる」と伝えられて
戸田城聖氏の口述によれば、「既に現れているかもしれない」
しっかり明言している。

ところで、三座に関して命題がついていない事に気付かれたでしょうか? 
実は創価では1991年より2004年まで
三師供養と言う命題が着いていて
三座の御祈念はd,e.fの御祈念後
4座の勤行へと移っていたが
1991年までは、上記の御観念文の後、心の中で題目を唱え
次の一文を御祈念していた 

[南無日道上人、日行上人等、御本山 御歴代の御正師
御威光倍増 御利益広大 御報恩謝徳の御為に
]

これは日連正宗総本山の御歴代の法主を供養する御祈念なのですが
血脈を創価学会では完全に否定した為、破門後、即座に削除された
「歴代の中で汚れている法主が居たから」と主張しているからで ある

しかし個人的な見解として“南無”を削除する分には構わないが
法主を一切無視する御観念文も如何なものだろうか?

この後、5座でも述べるが
創価学会では自分の処に居る3代会長だけは、しっかりと
上記のような特別扱いをする御観念文が明記されている
確かに3代会長は死身弘法の弘教を行なったので
称えるのは勿論だが、
しかし それだけでは 余りにも虫のいい話ではないか

元来、創価学会は日連正宗の講であり、諸々の事情があって
昭和26年の11月に宗教法人として独立した形をとっていたものの
独立後も正宗の信徒団体として正宗に属する異例の宗教団体だった
従って、原型は日連正宗であり間違っても、池田教ではない
また本来の師匠は日連大聖人であって、池田大作氏は教主でもない
正しき信心をしたか否かの話であって
そこら辺は何か勘違いをしているのではないのか? 

また 御書編纂にしても、今、日連正宗の間違いに
堂々と反論が出来るのも
第59世堀日亨上人が居なければ出来なかった事でもあり
彼が居なければ、譬え、戸田城聖氏が立派でも
弟子に教学が無い為 ガタガタになった可能性だって否めない
(今でも、教義に関して
 全く、法論になっていない時が多いのは残念な事である
 下手すれば小樽問答みたいなのものが再開されたら
 今度は身延に負ける)

今でも、学会員が拝んでいる御本尊は
日寛上人の書写(しかも一部を改竄している)の本尊ではないか!
また、あれだけ最後ボロボロな最期を遂げたのにも関わらず
日達迎下御書写の御本尊は特層本尊扱いになっているのは何故?

そういった意味で、彼等が居なかったら
ただの立正佼成会や霊友会レベルに陥っていた筈である
それを鑑みれば、この項目を削除するのは余りにも傲慢であり
妙観講から忘恩とか盗人と断じられても、反論が出来ない

【参考資料】
http://homepage3.nifty.com/y-maki/souka/nisemokuji.htm
http://homepage3.nifty.com/y-maki/souka/nisemokuji.htm
http://homepage3.nifty.com/y-maki/souka/nise06.html

尚、現在も日連正宗では この御観念文がある筈です


5:四座:広宣流布御祈念

a.鐘を鳴らし 斜字の部分を除く 方便品を読経
b.鐘を鳴らし 寿量品(自我偈のみ)を読経
c.題目三唱
d.鐘を鳴らし 題目三唱後、御祈念

 [広宣流布大願成就と
  創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます]

 [祈念し奉る、我等弘法の誠意大御本尊に達し
  一天四海本人妙 広宣流布大願成就 ご祈祷の御為に。
]

【解説】
戦後、天皇が象徴として権力の座から追われ
主権が国民に移った為
日連正宗では上記の御観念文に代わったのだが
開山より現在までは御観念文はこの形だった

[奉祈念、天皇陛下 護妙法、爾前釈門の謗法退治
一天四海本人妙 広宣流布大願成就 ご祈祷の御為に。
]

つまり天皇家が日連大聖人の仏法に帰依する事を願っていた
天皇が帰依すれば国民も次々と帰依して行き一国が繁栄すると
考えていたからである
また、日本は意外だが、妙法の国で
天皇家も確か、法華経に帰依していた筈である
その為か、日連正宗大石寺には
現在でも紫宸殿御本尊が安置されている筈である
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Shishinden.jpg
(本来、映してはいけないものなのですが
 滅多にお目にかかる事も少ないので
 もしよろしければ参考に見てください
 さすがに綺麗な御本尊ですね、謹んで感謝をし 御祈り申し上げます 
 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経)

尚、御祈念が通じたのか皮肉にも戦後 法華講であられた
正田家から皇后として嫁いだ
その際、紫宸殿御本尊を持たせても良かったのだが
残念な事にその行為は憲法で禁止されている

個人的には二度と戦争を起こさない為にも
また、天照大神を持上げた形での戦争犠牲者なので
その意も込めて、出来れば、靖国神社に紫宸殿御本尊を御安置したい
但し、それは、広宣流布が達成された時で
神社本庁が創価もしくは日連大聖人の仏法を理解し
帰依して御書根本の正しき信心を貫けた場合の話であって
変な勘違いを起こさないでくれよ

e.題目三唱後 御祈念

 [過去、現在の謗法罪障が消滅し、現当二世に渡る願いが成就しますよう
  御祈念申し上げます。
  (個人の御諸願は 全て、ここで行なう) ]

 [某、過去遠々劫、現在漫々の 謗法罪障消滅
  現当二世 大願成就の為に
  (個人の御諸願は 全て、ここで行なう)
]

【解説】
この形で固定したのは、どうやら池田大作氏が会長就任後、初座と同様
昭和40年代に入ってからのようである
戸田城聖氏の時代は固定していなくeの御観念文は
五座の段階で書かれている上
「四座で行なっても良い」と言う 但し書きが添えられていた
詳しい事は解からないが 恐らく朝は四座でeの御観念文を御祈念し
夕方は五座で御祈念したのではないかと思われる
2004年10月まで夕方の勤行では、初座と四座が省略されていたため
皮肉にも夕方の勤行では
広宣流布御祈念と諸願祈念が全く行なわれない
という
ちぐはぐな形を40年以上も続けていたのである
(一回、その事で母親に伺った事があったのだが
 「五座でやればいい」とは聞いたものの 家族がそれをやっていない)

尚、創価学会では2004年10月より勤行が簡略化されたものの
広宣流布御祈念と諸願祈念は朝と夕方共、両方行う事にした

f.題目三唱


6:五座:歴代会長への報恩感謝と先祖回向

a.鐘を鳴らし 斜字の部分を除く 方便品を読経
b.鐘を鳴らし 寿量品(自我偈のみ)を読経
c.鐘を鳴らし題目(時間は自由 題目終了時は鐘を鳴らす)
e.題目三唱後 御祈念

 [創価学会 初代会長 牧口常三郎先生、二代会長 戸田城聖先生の
  死身弘法の御徳に報恩感謝を申し上げます]

【解説】
この御観念文は、1991年以降 新たに制定されたもので
それ以前は題目三唱後、次に述べる回向に入っていた
尚、1977年の一時期、ココか4座に 上記の御観念文が入っていて
創価学会の更なる発展等も御観念文に追加していた筈である
しかし、例の宗門事件が起こった為、この御観念文は翌年消える

e.題目三唱後 回向 (回向中は鐘を鳴らす)

 [先祖代々ならびに会員 友人の先祖代々の諸精霊、追善供養のために]

 [当門流信仰の面々、内得信仰の面々、各々 先祖代々の諸精霊
  追善供養証大菩提のために
]

f.題目三唱後 再び御祈念

 [世界平和と一切衆生の幸福の為に]

 [乃思法界平等利益自佗具安同帰寂光]


9:鐘を鳴らし題目三唱後、勤行終了



【夕方の勤行】

夕方の勤行は初座と四座が省略される
従って、夕方は二座からスタートし三座と五座だけ行なう
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by eco_eco69 | 2007-01-06 15:00 | 正行・助行